ア ユ タ ヤ の 歴 史
14-18世紀にかけて栄えたアユタヤ朝33代、417年の歴史を年表にまとめました。 ※王名のあとの( )内は在位年代を示す。| ◇ ア ユ タ ヤ 前 史 ◇ | ||||
| 時代 | で き ご と | 他のアジア諸国 | ||
| 前 史 | 6-11世紀 モン人が支配するドヴァーラヴァティー王国の支配下。 11-13世紀 クメール帝国(アンコール朝)の支配。 |
12世紀 アンコール=ワット創建 | ||
| 黎 明 期 |
13世紀 クメール帝国の衰退にともない、各地に小国家が起こる。 チャオプラヤー川下流域に、スパンブリーとロップブリーが台頭。 アユタヤは河川の結節点として、小さな町があった。 14世紀 アユタヤは「アヨータヤー」とよばれていた。 ▼ワット=パナンチューン(1324年) |
1257 スコータイ朝成立 1262 チェンセーンのマンラーイ王、チェンラーイ建都 1292 マンラーイ王、新都チェンマイを建設 | ||
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| 王朝 | 王 名 | で き ご と | 他のアジア諸国 | |
| ウ ー ト ー ン 王 家 | [初代] ウートーン (ラーマーティボディー1世) (1351-69) ![]() |
◆アユタヤ朝の建国(1351年) 王の出自には諸説ある。1331年にスパンブリーの王女と、続いて1340年にはロップブリー・アヨータヤーの王女とも結婚し、この地域の覇権を握る。 1347年,現在のワット=プッタイサワンの地にウィエンレック宮殿築く。 1351年3月4日、島内の新宮殿に移り即位。この町を「クルンテープ・タワーラワーディー・シーアユッタヤー」と命名。 ◆他のタイ族の小国家を糾合 ラーメースワン王子(2代王)にロップブリーを、王妃の弟・パグワ(3代王・ボーロマラーチャティラート1世)にスパンブリーを統治させる。スコータイ、チェンマイ、ナコーンシータンマラートなども属国化。 ▼ワット=プッタイサワン ▼ワット=ヤイチャイモンコン(1357年) |
1353 ファーグム王がルアンパバーンで即位、ラーンサーン王国成立 1368 元にかわり、明建国 14世紀末 マラッカ王国成立 1392 高麗にかわり、朝鮮(李朝)成立 1397 足利義満、金閣の造営開始 1404 日明貿易開始 1405 明の鄭和、南海遠征を始める(-33、7回) 1428 黎朝大越国成立 1429 中山王尚巴志、琉球王国を建国 1441 ラーンナータイ(チエンマイ)のティローカラート王即位(-87)。 | |
| [2代] ラーメースワン (1369-70,[1代]の子) |
クメール帝国の都・アンコール=トムを攻撃(1369年)したが、失敗。スパンブリーのパグワ(3代王・ボーロマラーチャティラート1世)の協力を得て、クメール帝国を占領した。このいきさつから王を退き、パグワに譲位。自分はロップブリーの統治を担当する。 ▼ワット=プララーム | |||
| スパンブリー王家 | [3代] ボーロマラーチャティラート1世 (1370-88,[1代]の王妃弟(兄?)) | 1378年 ナコーンサワン、ピッサヌローク、カムペーンペットを占領、スコータイ朝は降伏、アユタヤの属国となる。さらにチエンマイ、アンコール=トムを攻撃(1388年) | ||
| [4代] トーンラン (1388,[3代]の子) | わずか7日の在位で、ロップブリーのラーメースワンに処刑される。 | |||
| ウートーン王家 | [2代=重祚] ラーメースワン (1388-95) |
4代王を処刑し、ウートーン王家再興。 1390年 チエンマイを占領し、住民を南部のナコーンシータンマラートなどへ入植させる。 ▼ワット=マハータート | ||
| [5代] ラーマラーチャーティラート(1395-1409,[2代]の子) |
4代王トーンランの弟・ナコーンイン(のちのインタラーチャーティラート王)にスパンブリー統治を任命。 | |||
| ス パ ン ブ リ ー 王 家 | [6代] インタラーチャーティラート(1409-24,[4代]の弟) | 5代王を追放。ロップブリー王家とスパンブリー王家の争いに終止符。 | ||
| [7代] ボーロマラーチャーティラート2世 (チャオサームプラヤー) (1424-48,[6代]の子) |
父王の死後、王位をめぐって長子チャオアーイと次子チャオイーの兄弟が騎象戦を戦ってともに戦死、その結果第三王子が王に即位。 ◆アンコールを占領(1431-32年) クメール帝国のアンコール=トムを攻略。カンボジアから多数のテクノクラートや住民をアユタヤへ連行。この結果、政治・芸術などへのカンボジアの影響強まる。 ◆スコータイ朝消滅(1438年) スコータイ王マハータンマラーチャー4世が亡くなり後継者が絶える。スコータイの先王・マハータンマラーチャー3世の王女との間に生まれたラーメースワン王子(当時7歳。のちの8代王・ボーロマトライローカナート)にピッサヌロークの統治を任命。スコータイ朝は消滅、アユタヤ王国の一地方となる。 ▼ワット=ラーチャブーラナ(1424年) ▼ワット=マヘーヨン(1438年) | |||
| [8代] ボーロマトライローカナート (1448-88,[7代]の子) |
40年の在位期間は、アユタヤ王の中で最長。 1463年 ピッサヌローク遷都。ラーンナー王国(チエンマイ)と対抗。 スコータイのリタイ王に帰依し、彼に倣ってピッサヌロークで8ヶ月間出家。スコータイの仏教政策を取り入れる。 ◆サクディナー制を定める 社会的地位を水田の面積で表した制度で、皇太子は10万ライ(1ライ=1600平方メートル)、官僚は400〜1万ライ、一般人は10〜25ライ、奴隷・乞食は5ライなどと規定された。実際には、この面積の水田が実際に割り当てられたわけではなく、地位の上下を示す数字にすぎないとされている。ただし損害賠償の時にはこの数字が計算の基礎として使われた。この他にも中央官制の整備も行った。 ▼王宮跡(現在の場所に移転) ▼ウィハーン・プラモンコンボピット(大仏の製作) | |||
| 王朝 | 王 名 | で き ご と | 他のアジア諸国 | |
| ス パ ン ブ リ ー 王 家 | [9代] ボーロマラーチャーティラート3世 (インタラーチャーティラート2世) (1488-91,[8代]の子) |
1488年 再びアユタヤへ遷都。 1488年 テナッセリムのタヴォイ(今日のビルマのダウェー)を占領し、インド洋に貿易拠点を確保。 |
1510 ポルトガルがインドのゴア占領。翌年にはマラッカを占領 1526 インド、ムガル帝国成立 1531 ビルマ、ダビンシュエティー王即位。タウングー朝成立(-1752) 1547 ラーンサーン王国、セーターティラート王(-71) 1549 ザビエルが鹿児島に来航 1551 タウングー朝、バインナウン王即位(-81) 1556 バインナウン、チエンマイ占領。以後1781年まで、ラーンナータイ王国はビルマ支配下 1556 ラーンサーン王国、ビエンチャン遷都 1565 スペイン、フィリピン植民地化 1573 室町幕府滅亡 1574 バインナウン、ビエンチャン占領。約10年後、ラーンサーン王国独立回復 1590 豊臣秀吉、日本を統一。朝鮮侵略(1592-98) 1600 英、東インド会社設立 1602 蘭、東インド会社設立 1603 江戸幕府成立 1619 蘭、バタビア建設 1622 蘭、台湾支配(-61) 1623 英vs蘭、アンボン事件 | |
| [10代] ラーマーティボディー2世 (1491-1529,[9代]の弟) |
1511年 ポルトガル人ドゥアルテ=フェルナンデスが、西洋人として初めてアユタヤに来航。 ▼ワット=プラシーサンペット(1492年、東側と中央の仏塔を建立) ▼ワット=ナープラメーン(1503年) | |||
| [11代] ボーロマラーチャーノープッターンクーン (ボーロマラーチャーティラート4世) (1529-33,[10代]の子) | ||||
| [12代] ラッサダーティラート (1533-34,[11代]の子) | わずか5か月の在位。次王によって処刑。 | |||
| [13代] チャイヤラーチャーティラート (1534-47,[10代]の子) |
5歳の先王から王位を奪う。 このころ、ポルトガル人町できる。ポルトガル人義勇軍160名が王に仕えていた。 | |||
| [14代] ヨートファー (1547-48,[13代]の子) |
生母は13代王妃のシースダーチャン。夫の死後彼女は、その情夫・ウォーラウォンサーとともに権力を握る。ウォーラウォンサーはヨートファー王を毒殺し、自ら王位につくが、在位6週間で処刑される。 | |||
| [15代] チャクラパット (1548-69,[13代]の弟) |
ウォーラウォンサーとシースダーチャンを処刑し、王位をスパンブリー王家に奪還する。 ◆第1次ビルマ戦争(1548-1605) 1549年 ダビンシュエティー王率いるビルマ軍が侵入し、王子ラーメースワンを人質として連行。王妃スリヨータイが男装して副王に扮して戦い、傷を負って象の上で亡くなった。この機に乗じて、カンボジアも侵入。 1555-56年 カンボジアの首都・ロヴェークを攻撃。 ▼チェディー・シースリヨータイ(後世の建築との説もある) | |||
| [16代] マヒントラーティラート (1569,[15代]の子) |
1569年8月 バインナウン王(タイ語名ブレーンノーン)率いるビルマ軍が、アユタヤを占領。 ▼ワット=プーカーオトーン(ブレーンノーン王による増築、1569年) | |||
| ス コ ー タ イ 王 家 | [17代] マハータンマラーチャー (1569-90) |
チャクラパット王がウォーラウォンサーからの王位奪取に協力。その功によりピッサヌロークの統治を任され,チャクラパットの王女と結婚。 ビルマ軍がピッサヌロークを占領すると捕虜となり、以後ビルマに協力。ビルマの傀儡としてアユタヤの王となる。 | ||
| [18代] ナレースワン大王 (1590-1605,[17代]の子) |
◆ビルマからの独立を果たす ピッサヌローク生まれ。ピッサヌロークがビルマに占領されると、人質としてビルマのバゴー(ペグー)に連行される。 1571年 帰国。副王としてピッサヌロークを統治。 1584年 ビルマ駐屯軍を追放して、アユタヤの独立を回復。 1593年 ビルマ軍との最大の決戦。スパンブリーでの象戦に勝利。 1604年 日本の朱印船がアユタヤに来航。 ▼ワット=ヤイチャイモンコン(メインのチェディー)(1593年) | |||
| [19代] エーカートッサロット (1605-10/11,[18代]の弟) |
1608年 オランダがアユタヤに商館を設置。タイ最初の遣欧使節をオランダに派遣。 | |||
| [20代] シーサオワパーク (1610/11,[19代]の子) |
1612年 イギリスがアユタヤに商館を設置。 | |||
| [21代] ソンタム (1610/11-28,[19代]の子) |
1623年 仏足石がサラブリーで発見。これ以後歴代の王は、年1回仏足石参りを行う。 ◆日本との通商・外交関係を強化 ▼日本町が急速に発展し、1000〜1500人の日本人が居留していた。そのころの日本町の頭領、日本人義勇軍のリーダーが山田長政(タイでの欽賜名は、オークヤー=セーナーピムック)。王は、使節を3回にわたり日本へ派遣。1636年までの間に日本からの朱印船56隻がアユタヤに来航した。 | |||
| [22代] チェーターティラート (1628-29,[21代]の子) |
時の実力者・チャオプラヤー=シースリヤウォン(後のプラサートトーン王)や日本人義勇軍の援助を得て、弟を処刑して即位。しかし、シースリヤウォンと対立して王位を追われ、最期は自らも処刑された。 | |||
| [23代] アーティッタヤウォン (1629,[22代]の弟) |
チャオプラヤー=シースリヤウォンが擁立。1か月後に廃位。 | |||
| 王朝 | 王 名 | で き ご と | 他のアジア諸国 | |
| プ ラ サ ー ト ト ー ン 王 家 | [24代] プラサートトーン (1629-56) | ソンタム王のころ王宮部で頭角を現し、チェーターティラート王の即位を助けた功績で、カラーホーム(国防省)の大臣に任じられ、チャオプラヤー=シースリヤウォンの欽賜名を受ける。前王2人を退位させ、自ら王に即位。 ◆内乱や内紛の防止、中央集権政策 マハートタイ(内務省)にタイ中北部、カラーホームにタイ南部を管轄させ、大臣の権力の分散をはかった。 ◆対外関係の調整 王位継承に関与した山田長政を、ナコーンシータンマラート太守として派遣し、権力から遠ざけた。長政は当地で死亡。毒殺説もある。日本町を焼き討ち。ベンガル湾で幅を利かせるポルトガルに対抗させるため、オランダに鹿皮の独占権を与えたが、オランダの無法も目立った。 ◆クメール式美術の再興と仏教の振興 ▼ワット=チャイワッタラーナーム(1630年) ▼ワット=マハータート(メインプラーンの再建、1633年) ▼ワット=タンミカラート(チェディー) | 1639 日本の鎖国体制完成 1641 蘭、マラッカ占領 1644 明滅亡,清の中国支配(-1912) 1652-74 英蘭戦争、蘭の衰退始まる |
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| [25代] チャイ (1656,[24代]の子) |
在位わずか2日 | |||
| [26代] シースッタンマラーチャー(1656,[24代]の弟) |
甥のナーラーイと決起して王位を奪う。在位10週間で、ナーラーイ王に追われた。 | |||
| [27代] ナーラーイ (1656-88,[24代]の子) |
前王2人を退位させ、王位につく。 ◆親フランス政策を推進し、イギリスやオランダと対抗 1662年 フランス人イエズス会宣教師団に、教会と学校の設立を許可。 1665年 ロップブリーに副首都を置く。以後、アユタヤよりロップブリーで過ごす時が増える。政治や外交上の諸問題から逃れるためだと推測される。 1673年 親書をフランス王ルイ14世とローマ法王に送る。 1680年 第1回訪仏使節団を派遣。船が遭難し失敗。 1683年 第2回訪仏使節団。やはり船が遭難。 1685年 王の信任厚いギリシャ人コンスタンティン=フォールコンが、マハートタイ(内務大臣=文官最高の官職)に就任。親仏政策を推進する一方、私腹を肥やす。 1685年 フランスがシュヴァリエ=ド=ショーモン率いる使節団を派遣、王にカトリックへの改宗を迫るほか、貿易上の特権を要求。帰国に際し、王はコーサーパーンら第3回訪仏使節団を同行させ、ルイ14世に謁見。 1687年、コーサーパーンらとともに、シモン=ド=ラルベ率いるフランスの大使節団がアユタヤ来訪。軍艦6隻と492人の兵隊が同行、バーンコークを占領。第4回訪仏使節団を送る。 1688年 王が重病になると、象隊長ペートラーチャーら反仏・反カトリックの貴族たちがフォールコンを捕らえて処刑。フランス軍を追放。 ◆文学の発展。古典文学の基礎が作られる。他にも王は天文学に興味を持ち、月食や日食を自ら観測したという。 ▼St.Joseph教会 | |||
| バ ー ン ・ プ ル ー ル ワ ン 王 家 | ||||
| [28代] ペートラーチャー (1688-1703) |
◆フランス勢力を追放し、危機を救う スパンブリーのバーン・プルールワン村出身、母がナーラーイ王の乳母だったことから王に仕え、象隊長に出世。ナーラーイ王の末期、フランス勢力を追放し王位につく。 |
1689-1815 第2次英仏百年戦争。植民地争い。 1710ころ ラーンサーン王国、3分裂(ルアンパバーン、ビエンチャン、チャムパサック) 1752 タウングー朝滅亡。アラウンパヤーがコンバウン朝(-1885)を開く 1757 プラッシーの戦い。英のインド支配強化 1771 ベトナム、タイソン党革命開始 | ||
| [29代] スア (1703-09,[28代]の子) |
スアとは「虎」の意味。荒々しい性格のためこうよばれた。 | |||
| [30代] ターイサ (1709-33,[29代]の子) |
◆アユタヤ朝の最安定期 ターイサとは「池の端」の意味で、王が釣り好きだったためこうよばれた。 米の輸出さかん。インド、ジャワ、中国などへ輸出。 1720年 カンボジアを攻め、朝貢国とする。 ▼ワット=マヘーヨン(改修)(1709-13年) ▼ワット=クディーダーオ(副王ボーロマコートによる改修)(1711-14年) |
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| [31代] ボーロマコート (1733-58,[30代]の弟) |
◆アユタヤ朝の最安定期 カンボジアの王位継承に介入し、属国化。 スリランカ仏教建て直しのため、2度にわたり僧侶団を派遣。 ▼ワット=スワンダーラーラーム |
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| [32代]ウトゥムポーン (1758,[31代]の子) |
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| [33代] エーカタット (1758-67,[32代]の兄) |
◆ビルマ軍の侵入でアユタヤ朝滅亡(1767年) 1760年 ビルマのアラウンパヤー王、アユタヤを包囲。 1765年 シンビュシン王率いるビルマ軍、北方と西方から侵入し、再びアユタヤを包囲。 1767年4月7日 アユタヤ陥落。タイは分裂。 |
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その後 |
1767年8月 タークシン、東南部のチャンタブリーを占領。 1768年 タークシンがトンブリーで王に即位。旧アユタヤ朝の版図を回復。 1782年 チャオプラヤー・チャクリーが王に即位。ラッタナコーシン朝を開く。 | |||