アユタヤ 見どころ紹介(5) 島内・島外南東部
チャオプラヤー川を遡上してきた船がアユタヤに最初に着くこの辺りは、貿易や通商の拠点としてアユタヤの繁栄を支えた。日本町をはじめ、外国人の居住区もこの辺りにたくさんあった。今日もたくさんの観光客や参拝者を集める寺院が点在している。
バンコク方面からアユタヤの街に近づくと、この寺院の巨大なチェディー(釣り鐘型の仏塔)が最初に目に入ってくる。高さ92mというアユタヤで一番の高さを誇るチェディーは、16世紀末のアユタヤ中期の代表的建築で、途中まで登ることができる。このほかにも、回廊跡に並ぶ白い座仏や大きな寝仏など見どころも多く、常に内外の観光客でにぎわっている。なお、地元の人は短く「ワット=ヤイ」とよんでいる。
アユタヤ陥落以後寺院は荒れ果てたが、近年修復され、現在では僧侶やメーチー(白衣を着た女性の篤信者)が居住している。
入口から入って左手には、大きな寝仏が露天に気持ちよさそうに横たわっている。やはりナレースワン大王時代のものだが、その後破壊が進み、近年再建された。当時の建物を支えた柱が残っている。
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西側の礼拝堂あと
北側の回廊
寝仏のアップ
島の南東部、チャオプラヤー川とパーサック川が合流する辺りにある。本堂(ウボソット)と礼拝堂にはたくさんの壁画が描かれているので、一見の価値がある。この寺院は遺跡ではなく、僧侶が常駐する現存の寺院である。
本堂の壁画はラーマ3世時代のもので、おもに仏教関係の絵画、礼拝堂のものはラーマ7世時代のもので、ナーラーイ王にまつわる故事が描かれている。
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本堂の内部
本堂の壁画(2)[少し見にくい]
詳細 ビルマ軍の攻撃を受けたチャクラパット王は、アユタヤの城壁を建設した。続いてマハータンマラーチャー王は都城を東方、パーサック川沿岸まで拡大したので、城壁は12.4kmにも及んだという。そして城壁には合計22か所の砦が設けられ、王都の防衛にあたった。
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砦と監視塔
砦からチャオプラヤー川を望む
世界とつながるアユタヤ
金色の大仏がおさまる大仏殿は、いつ行っても線香の香りと信者の熱気にあふれている。この寺院はアユタヤ朝ができる以前から、河川交通至便なこの地にいた中国人によって信仰されていたという。
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陸路からの入口
中国風の廟の中
大仏殿の前の拝殿
ワット=パナンチューンから1kmほど南の町はずれにある。いつ行っても日本人観光客とそれに群がる土産売りがいる。(それ以外の人は滅多にいない。)最近整備され、こぎれいな公園になった。右手奥には「泰日協会展示館」(山田長政の銅像あり。あとは土産物屋)、左手手前には「アユタヤ歴史研究センター別館」(本館に比べ、ずいぶん見劣りがする)という、コンクリート製の建物が建っている。
長政は、鹿皮や鮫皮などを日本へ輸出する大商人として蓄財に励む一方、アユタヤと日本(徳川幕府)の外交の仲介を行ったり、800人の兵力を誇る日本人義勇軍の総大将として活躍し、アユタヤの宮廷に影響力を持つようになった。ソンタム王が亡くなり、王位継承争いが起こると、時の実力者・チャオプラヤー=シースリヤウォンは、長政を南方のナコーンシータンマラートの反乱鎮圧に派遣し、当地の太守に任命することで、長政の影響力を排除した。そしてシースリヤウォンは自ら王に即位した。これがプラサートトーン王である。長政は1630年ナコーンシータンマラートで亡くなるが、反乱鎮圧の際負ったけがが原因とも、毒殺されたとも言われている。