大きな本堂にもびっくりだが、中に安置された金ぴかの宝冠仏にも圧倒される。本来仏像は修行に励むブッダの姿を写し上半身裸なのだが、この宝冠仏は文字通り美しい冠と衣装を身につけており、アユタヤ美術独特のものだという。威風堂々としたその姿は、当時の国王の姿を彷彿とさせ、アユタヤの繁栄を物語るものかもしれない。
また、別の小さなお堂には、ドヴァーラヴァティー時代の古い仏像が祀ってある。先ほどの宝冠仏とは対照的な、素朴な姿に親しみがわく。
詳細 ワット=プラシーサンペットを造営した
ラーマーティボディー2世王が、1503年に建立した。1549年にはアユタヤに攻め入ったビルマのブレーンノーン王と
チャクラパット王がここで停戦条約を取り結んだ。2度にわたるビルマ軍の侵入の際にもほとんど破壊されずにすんだ少ない寺院で、19世紀前半(
ラーマ3世代)に至るまで修復が続けられた。
本堂は奥行きが41.5mもあるうえに、高い基壇の上に立っているのでたいへん大きく見える。また本堂の内外の至るところに彫られた木彫りにも注目したい。

宝冠仏は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)を表しており、未来仏である弥勒は、現在トサツ天で天人たちを相手に説法をしている。そのため天人たちと同じ服装をしているという。別の説では、宝冠仏はブッダ修行の故事にもとづくという。悪魔はブッダの修行をじゃますべく美しく着飾って踊ったが、ブッダは自らもっと美しく飾り立てて悪魔を追い払った。その姿を表しているという。
本堂の脇に立つ仏堂にあるドヴァーラヴァティー時代の仏像は、緑色の石でできており、ナコンパトム県で発見されたと言われている。様々な特徴から、唐時代の中国の影響を受けていると思われる。交易船などが描かれた仏堂の壁画も一見の価値がある。なお、同時に発見された仏像のうち、もう1体はチャオサームプラヤー国立博物館に展示されている。

島外の北西部約2kmのところ、田園の中に高さ90mの白いチェディーがそびえ立つ。ワット=ヤイチャイモンコンのチェディー(高さ92m)に次ぐ、アユタヤ第2の高さを誇る。街から少し遠いうえに、チェディーの急階段で息は切れるが、登ればアユタヤの豊かな風景が一望できる。
詳細 記録によれば、アユタヤ初期の
ラーメースワン王の時代に建立された。1569年にアユタヤを占領したビルマのブレーンノーン王は、それまでのチェディーに覆い被せるように新たなチェディーを建設したという。
なお、このチェディーに隣接して僧侶の常駐する寺院もある。

広大な緑の芝生に大小のプラーン(クメール風の仏塔)がそびえ立つ姿は、アユタヤで一番の壮観かもしれない。アユタヤ朝初期のクメール風建築の復活をめざした
プラサートトーン王によって1630年に建立された。アユタヤ滅亡時にビルマ軍の駐屯基地になり、その時首を切られた仏像が回廊にずらっと並ぶ姿は痛々しい。チャオプラヤー川沿岸に位置するが、正面は川の方(東側)に向いているので、ぜひそちらから全景を見てほしい。
詳細
プラサートトーン王は、王位に就いた直後、亡き母親の供養のためにその住居跡にこの寺院を建立した。または、この寺院はカンボジアとの戦勝記念に建立されたもので、そのためにクメール風の建築にしたのだという説もある。
中央のプラーンは高さ35mあり、4つの小プラーンがそれを取りまいている。その外側には回廊がめぐらされ、あわせて120体もの仏座像が並んでいたが、現在はそのほとんどは首が切られている。回廊の四隅と四辺の中央部の合計8か所には「メーン」と称される円錐形のお堂が建ち、四隅にはそれぞれ2体の、他にはそれぞれ1体、合計12体のかなり大きな仏像が安置されている。回廊の東側には52.75m×20mという広い本堂の跡があり、台の上には黄色い僧衣を着た仏像が2体(往時はもう1体あった)、川を向いて鎮座している。

なお、この寺院にはアユタヤ時代を代表する詩人の一人、チャオファー・タンマティベートとその愛人の遺体が埋葬されている。タンマティベートは
ボーロマコート王の王子であったが、父王のハーレムに侵入して密通を重ねたため、2人とも庶民に落とされた後鞭打たれ絶命した。

ワット=チャイワッタナーラームからチャオプラヤー川をしばらく下ると、左手に一見アユタヤに「ふさわしくない」感じの、オレンジ色の教会が現れる。アユタヤ朝後期、17世紀後半の
ナーラーイ王の時代に、フランス人居住区に創建されたこのカトリック教会は、当時のアユタヤの国際性を示している。
詳細  フランス人居住区は、
ナーラーイ王の時代に始まり、宗教関係者を中心に1500〜2000人のフランス人がいたという。
ルイ14世時代のフランスから派遣されたイエズス会宣教師団が、1662年ナーラーイ王に教会と学校の設立を求めると、王は土地や建設資材を与えて援助したという。当時この教会には様々な国の神父に混ざって日本人の神父もいたという。

ナーラーイ王が亡くなると、王位を奪った
ペートラーチャー王はナーラーイ王の親フランス政策を改め、フランス人を逮捕しこの教会も取り壊したが、その後教会や学校の再建を許した。ビルマ軍によるアユタヤ占領の際、ここはビルマ軍の基地とされ、最後は焼き払われてしまった。
現在の教会は
ラーマ3世の時代(19世紀)に、フランス人のパレゴワ神父によって再建されたものである。

ワット=チャイワッタラーナームから、チャオプラヤー川を少し下ったところにある寺院。アユタヤ朝の開祖・
ラーマーティボディー1世(ウートーン)王が最初に建てた宮殿の跡地に建てられた。仏像の並ぶ回廊がクメール式仏塔(プラーン)を取り囲んでいる。僧侶が住む現存の寺院なので、プラーンや回廊などは修復されているが、回廊の東側(奥側)には古い寝仏やチェディー、建物跡などが残り、遺跡の雰囲気も味わえる。
詳細
西方のウートーンから移動してきたラーマーティボディー1世(ウートーン)王は、この地に「ウィエンレック」宮殿を築いて3年間滞在した。その後、島内の新宮殿に移るとこの地に寺院を建立したという。

メインになるプラーンは、その言い伝えどおりアユタヤ朝初期のものだといわれるが、一方ではアユタヤ朝後期の
ナーラーイ王かそれ以後のものだというの説もある。その後
ラーマ5世王のご訪問にあわせて修復され、さらに近年白く塗られた。プラーンを囲む回廊とそこに並ぶ仏像は、今は遺跡と化したワット=チャイワッタナーラームなどの寺院の、往時の様子を彷彿とさせる。
寺院の東、僧の居住区に「コーサーチャン御殿」とよばれるアユタヤ朝後期の2階建ての建物が立っている。高位の僧コーサーチャンがスリランカに参詣した様子が、壁画に描かれている。なお、バンコクのジム=トンプソンの家の一部分は、この建物をモデルにしている。
また寺院の西には、アユタヤ朝の3人の王の銅像が並んでいる。中央に開祖・
ラーマーティボディー1世(ウートーン)王、左に
ナーラーイ王、右に最後の王・
エーカタット王である。