アユタヤ 見どころ紹介(1)
島内中心部 その1
川に囲まれた川中島は、アユタヤ朝時代から今日に至るまで、この街の中心地として栄えた。とくに王宮を中心にした島の北西部は、まさにアユタヤ朝の心臓部であった。今日でも、国内外の観光客を最も多く目にする地域である。
1.王宮跡 2.ワット=プラシーサンペット 3.ウィハーン=プラモンコンボピット
1.王宮跡
ワット=プラシーサンペットの北側、草むらの中に何棟かの建物の基壇が残っている。ここがかつてのアユタヤ王朝の心臓部で、華やかな建物が並び、遠く中東やヨーロッパからの使者が出入りし、はたまた権謀術数が渦巻く政治の場だったとはにわかに信じがたい。
遺跡となった建物あとに興味を持つ人は少ないのだろう、この辺りを訪れる人は意外に少ない。夕暮れ時、当時の栄華に思いをはせながら散策してみたい。芭蕉の「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」という句が頭をよぎる。
入場 7時〜18時30分。30B(タイ人10B、ワット=プラシーサンペットと共通)。
詳細
元来の王宮は、南側の今のワット=プラシーサンペットの場所にあったが、15世紀後半のトライローカナート王がその北、今の場所に移した。おもな建物は次の通り。(番号と右の図は一致する)
@サンペット=マハープラサート宮殿・・・・トライローカナート王が一番最初に建てた建物で、王の即位式や元服式(頭のまげをそり落とす儀式)のほか、外国使節の謁見も行われ、ラーマーティボディー2世王がポルトガルの使節を、ナーラーイ王がフランス王ルイ14世の使節を謁見したのもこの宮殿だった。
Aチャクラワット=パイチャイヨン=マハープラサート宮殿・・・・1632年、プラサートトーン王によって王宮の南東の角に建てられた。王宮前広場での閲兵式や観劇などの際に使われた。
Bウィハーン=ソムデット=マハープラサート宮殿・・・・サンペット=マハープラサート宮殿の南にある。やはりプラサートトーン王によって1643年に建てられ、即位式や元服式などが執り行われた。
Cバンヨンラッタナート=マハープラサート宮殿・・・・王宮の奥、池に囲まれて建つ。17世紀後半、ナーラーイ王のころ建てられた。
Dトリムック宮殿・・・・建設の時代や王名は不詳である。ラーマ5世王が再建し、王宮跡で唯一当時の面影が伺える建物である。
2.ワット=プラシーサンペット

アユタヤ朝中期の15世紀末に建立された王室寺院。現在のワット=プラケーオに当たる最重要寺院だった。釣り鐘型の3基の仏塔(チェディー)は、王の遺骨を祀るために15世紀末から16世紀前半にかけて建てられ、今日では古都アユタヤを代表する光景として、あまりにも有名である。仏塔以外の建物は破壊され、基壇や柱の一部が残るのみで、首のなくなった仏像を見ると、時の流れのはかなさ、諸行無常を感じざるを得ない。
アユタヤ観光の一大中心地なので、門前にはみやげ物屋や食堂がずらりと並んでいる。このあたりの名物なのか、大きな袋に入ったエビチップ(?)がよく売られている。なかなかおいしかった。
入場 7時〜18時30分。30B(タイ人10B、王宮跡と共通)。
詳細 この地にはアユタヤ朝の開祖・ラーマーティボディー1世(ウートーン)王が建てた王宮があったが、15世紀後半のトライローカナート王はその北に王宮を移して、王宮付属寺院のための土地とした。
その息子のラーマーティボディー2世王は1492年、3基の仏塔のうち東側と中央の仏塔を建立し、それぞれ父王トライローカナート王と兄王ボーロマラーチャーティラート3世の遺骨を祀った。さらに1499年には仏塔の東側に大きな礼拝堂(ウィハーン)を建て、高さ16mの大仏を安置した。この大仏は171kgもの黄金に覆われていたが、ビルマ軍によるアユタヤ陥落時に溶かされ奪われてしまったという。
西側の3基目の仏塔は、ボーロマラーチャーティラート4世王が、父王ラーマーティボディー2世王の遺骨を祀るために建てた。その後、17世紀前半のプラサートトーン王のころ、仏塔の間にモンドップ(塔堂。箱形の建物に尖塔が乗っている。)が3棟建てられたという。
1767年のビルマ軍の侵入で完全に破壊されたが、1957年に仏塔の修復が行われた。今日では仏塔3基と、いくつかの建物あとが遺跡公園として整備されている。
3.ウィハーン=プラモンコンボピット

ワット=プラシーサンペットの南(左手)に、白色と赤色に塗られた大きな礼拝堂(ウィハーン)が目に付く。中には15世紀後半に作られた高さ約13mの青銅製の大仏(タイ最大の青銅仏。現在は金箔が張られている)が祀られており、一日中参拝客が絶えない。
入場 無料だが、タイ人は皆、お布施(10-20B)を納めて、線香や金箔などのお参りセットを求める。
詳細
この大仏の作者や年代は不詳だが、おそらく15世紀後半のトライローカナート王のころのものと言われている。17世紀前半のソンタム王のとき、王族の火葬場所確保のため、もとあった場所から西へ200mほど移されて今の場所に落ち着いたという記録がある。
この大仏は2度大災難に遭っている。一度目は18世紀初めのスア王の時落雷にあって大仏殿のモンドップが崩壊し首が落ちてしまった。修復されて数十年後、今度は侵入したビルマ軍に金箔を溶かされ、右手が欠落、大仏殿も焼け落ちてしまった。
ラーマ5世時代に大仏の修復が進み、1956年に今ある礼拝堂が完成した。なお、その前年、1955年には当時のビルマのウー=ヌ首相がアユタヤを訪れ、過去のビルマ軍の行為に対する謝罪を表明し、この礼拝堂修復のために20万バーツを寄附したという。